男は,待っていた。時は夜。いかにも侘しい光を投げかける電柱の街頭の下でじっとその時を待っていた。電柱の光は暗く,煤けたコンクリート塀とごたごたした小汚い建物の間を走る細い路地をぼんやりと照らしていた。光はあまり遠くまで届かず路地がどこまで続いているのか判別できない。
建物の壁は小さな勝手口のようなものやガスボンベや何かの空き箱やらで覆われていた。窓は煤けていたりしてあまり掃除が行き届いていないようだが,遠くから聞こえる騒音から判断すると,建物はその向こうの大通りに面しているようであり,こちら側が裏側だということになる。
それにしても,この路地は静かだ。煤けた塀には工場の名前と屋号のようなものが描かれているがその向こうからは生産的な音はしない。おろらくはこの時間には誰も働いてはいないのだろう。
ただ,電柱の光よりも強い光を投げかけているものが一つだけあった。男の数丁先にある建物の出入り口から光が外の地面にこぼれていて白い台形を形成していた。引き戸のガラスはすりガラスでどうやら連れ込み宿のようなものらしい。
と,じっと立っていた男が何かに反応した。すっと一歩後ずさりし電柱の背後に潜り込んだ。男の姿は背後の闇に溶けこんでいった。暫くしてガチャガチャと音を立て自転車に乗った工員風の男が通り過ぎていった。何も見ず何も気づかぬ様子で暢気にペダルを漕いで行く。自転車の行員が行きすぎると再び男は光の中に姿を現した。

それにしてもである。このような場所で一体彼はなにをしているのだろうか。男は背が低い中年である。顔つきはさほど整ってはいないがかといって醜いというわけではない。着ているオーバーやズボンといったものはそれとわかる上等なものである。整った髪もきれいに剃られた髭も清潔でありおおよそこの小汚い路地には似つかわしくない。
男はじっとその連れこみ宿の出入り口に目をやっていた。しかしそのような趣味があるようには見えない。むしろその眼光は厳しく鷲か何かを想像させる。かれこれどのぐらいの間そこに立っていたのかしれぬが,何故このようなところでこのようなことをしているのだろうか。

と,不意にすりガラスに人影が映り引き戸が引かれた。外に二人の人影が滑り出てゆく。入り口から漏れる,電光を横から受けて二人の顔が陰影たっぷりに浮かび上がる。

「また…会ってくれるわね?孝治さん」若い女がそっとささやいた。どうやら男は孝治という名のようだ。男は耳元に唇を寄せて何事かささやくと女のほほにさっと朱がさした。二人は若い男と女で男は22から4ぐらいで女もそれと同じぐらいに見える。二人の顔は上気していて若さと幸せに包まれている。

と,先ほどから待っていた男が街頭の光の中に踊り出てきた。顔は憎しみに満ち狂暴な光が目に差している。
「清子…貴様よくも俺を裏切ってくれたな」男が言うなり手にしたステッキで女を殴りつけた。
煽りを受け女は地面に倒された。女の上にその男が馬乗りになり手で首を掴む。手には物凄い力が掛かっているのだろう,関節が真っ白に浮き出ていてそして男は歯を食いしばり狂気がその顔を覆い尽くす。女は必死に抵抗した。着物のすそが乱れ履物は跳ね飛ばされ足が空しく虚空をばたついている。右に左に首をねじり何とか手をのけようとするがその尋常ならぬ状態から逃れる術はなかった。

ああなんということだろう。彼女はここでその生命を終えてしまうのだろうか。しかし若い男がはっしと後ろから組みつき彼女を引き剥がした。女はぐったりと地面によこはわっている。男二人はくんずほぐれつの取っ組み合いをしていた,が若さの故なのだろう若い男がとうとう小男に強烈な体当たりをかまし格闘は終わった。男は背後の塀にしたたかに頭を打ち付けずるずると地面に崩れ落ちて行った。若い男はすぐに女を助けに向かう
「大丈夫ですか?清子さん」おとこは彼女を抱え上げながら叫んだ。どうやら彼女には別状はなく無事のようである。が,突如その顔色が紙のように白くなった。一体何を見たというのだろうか。

倒れた小男の頭の後ろからどす黒いものがどろりと流れ出していた。それだけではない,先ほど頭を打ち付けた塀にも赤いペンキを掃いたように染みがついている。男の頭は見る間にねっとりとした液に覆われた。電柱の街燈にその赤い光を反射させている。
慌てて男は小男を抱きかかえた,がもう生命がないということに気づいたのだろうか,そのまままた地面に横たえてしまった。
二人はじっと立ち手を繋いだ。路地の彼方向こうを男は見る。首を巡らし反対側を見遣る。人の気配はあくまでもなくただただ静けさだけがその場を支配していた。1組の男女と横たわりぴくりとも動かない小男を除いてはなにもかも事が起きる前となんら変化はなかった。暗黙のうちに二人は意思を交わした。
この路地には誰も居ないそして事件を知るものは誰も居ない。二人の目に決意が宿る。

だがしかし本当に誰も居ないのだろうか。いや,何一つ物音を立てずじっと息を潜めている一人の男がそこに居た。居ただけではない。あろうことかことの一部始終をじっと目撃していたのだ。
男が倒れたその瞬間も感情を表に出すことなくあたかも科学者の観察の如く無表情でそれを眺めていた。眺めてはいたが全神経と注意力を総動員している様子がよくわかる。真剣そのものだったのだ。
一体彼は何物なのだろうか。が,どうやら自分がここに出てくるべきなのだろうと判断をしたようだ。おもむろに立ちあがりゆっくりと男女のほうに向かってゆく。

じっと立っていた男女はようやく近づく男の気配に気づいた。男がやって来るのを見て一瞬驚きを表した,そして落胆の色がありありとその顔をよぎる。
二人は問いたげな眼差しでその男のほうを見遣る。おとこはゆっくりと二人のほうに歩を進めてゆく。
ほぼ同時に二人が口を訊いた
「どうでしたか?」
男は答えた。
「まるでなっとらん,もう一度取り直しだ」